1958〜1973年


 1958年、高校卒業後、20歳で部落解放同盟大阪府連合会(以下 大阪府連)に常任として専従オルグに従事する。
 この間、大阪府下の被差別部落を回り、部落解放同盟の組織化に奮闘する。各地で次々に支部を結成させ、大阪府連の大衆的発展の基盤をつくる。
富田林市交渉

上田夫妻  1962年、24歳の時、小学校教師の武林孝子と結婚。大阪府松原市に部落解放同盟の支部結成を機会に定住する。

 1964年、26歳の時、大阪府連の組織部長に就任。
当時大阪府連をはじめ全国の部落解放同盟は日本共産党が機関を支配しており、その後の路線対立から日本共産党の部落解放同盟攻撃に対し先頭に立って闘う。
蛇草支部再建

大阪府連委員長就任  1967年、28歳で部落解放同盟中央本部中央執行委員、1968年29歳で大阪府連書記長、1973年34歳の若さで大阪府連執行委員長に就任。以後21年間委員長を務め、大阪はもとより全国の部落解放運動をリードする。

 1967年、29歳で全国解放教育研究会(現・(財)解放教育研究所)を設立し、会長(理事長)に就任。1970年より部落問題の正しい認識と反差別の教育をめざして、小・中学校教育の副読本として「にんげん」(明治図書)を毎年発行し、高い評価を得る。 副読本「にんげん」

大阪府同和地区企業連合会設立総会  1967年、部落内企業者の経営の安定と生活の向上をはかるために「大阪府同和地区企業連合会」(現・部落解放大阪府企業連合会)が設立され、常任理事に就任。以来、部落の産業振興及び事業者の育成や雇用の創出に奮闘する。


 1969年の「同和貿易振興会」、「(財)大阪府同和金融公社」設立を皮切りに、1970年には「(財)大阪府同和建設協会」、「大阪府同和食肉事業協同組合」、「大阪市同和衛生事業組合」を相次いで結成、翌1971年には「(財)大阪同和産業振興会・新大阪タクシー」が営業開始する。また1972年「大阪府人造真珠事業協同組合」、1973年「部落解放皮革関連事業組合」(皮革製品フェアを毎年開催)などが結成、さらに1975年には部落解放高槻富田園芸協同組合(園芸フェアを毎年開催)結成など、部落解放運動のリーダーとして同盟内の事業者の組織化に尽力する。 新大阪タクシー営業開始

阪南中央病院外観  1973年、患者中心の新しい地域総合病院をめざして「阪南中央病院」を大阪府松原市に開設。劣悪な住環境によって伝染病が発生しても、貧困のために充分な治療を受けられない状況にあった被差別部落の医療の充実を図る。また、同病院は入院患者や外来患者、訪問治療患者数も多く、被差別部落だけではなく、周辺の地域医療に大きく貢献している。