1973年〜1993年


 1973年、34歳の時、自らの体験から「戦争と差別と貧乏が人間の人間らしい生活を奪い、生きる権利すら奪ってしまうこの社会を、平和で、差別のない豊かな社会につくりかえる」を信念に、参議院選挙出馬を決意。部落解放運動にとどまらず社会の変革のため、政治をめざし立ち上がる。 上田励ます集会

参議院議員選挙決起集会  1974年、36歳で参議院選挙大阪地方区に初めて出馬、約70万票を得るが惜しくも落選する。(全国最高得票の次点者

 1973年、部落解放運動の経験を活し、中小企業の事業主やそこで働く労働者に政治の光をあてるため「大阪府中小企業連合会」(旧・ 中企連、現・ティグレ)を設立し、会長に就任。この年から75年にかけて堺、東大阪、門真、八尾、富田林など大阪一円に事務所を開設。 中企連結成

第1回いのくら研究集会  1975年、住民の行政相談の窓口として「いのちとくらしを守る会」(いのくら)を結成し、会長に就任。住宅、教育、年金、健康保険などの課題に取組み、地域住民の福祉・生活の向上に奮闘する。

 1976年、38歳で衆議院選挙に大阪四区(東大阪市、八尾市、松原市など)より出馬、初当選を飾る。「河内の若虎」誕生。以後6期連続当選。 衆議院議員初当選

衆議院大蔵委理事就任  衆議院議員在職16年間に、衆議院内閣委員会理事及び大蔵委員会理事、社会党大蔵部会長、衆議院沖縄・北方対策特別委員長を歴任。国会では「人権・中小企業・国際交流の上田卓三」として知られ、院内はもとより院外でも華々しく活躍する。

 1979年、社会党大阪府本部副委員長に就任。1980年には社会党中央本部国際部長に就任し、平和と人権を目指して「地球サイズ」の行動力を発揮する。1980年から81年にかけては初の本格的な国際視察を行い、リビア、レバノンなど激動の中東やインド、ベトナムなどアジア諸国の計15ヶ所を次々と歴訪。その間PLOアラファト議長と会談するなど、訪れた各国で親善交流を図る。 PLOアラファト議長と会談

日ソ親善オリンピックツアー  1980年、大阪−レニングラード姉妹都市1周年を記念した「日ソ親善オリンピックの旅」を敢行する。日本政府がボイコットを決めたモスクワオリンピックに、飛行ルートの無い大阪伊丹空港に2機のソ連アエロフロ−ト機をチャーターし、300名の訪ソ団を組んで参加、日ソ間の緊張緩和に貢献する。翌81年には日ソ親善洋上大学「ナホトカ青年の船」を出港させ、以後10年間に渡って日ソ青年交流を手がける。

 1981年、日ソの経済交流と関西経済の復権をめざし、「日ソ経済交流関西シンポジウム」を主催し、成功を収める。 日ソ経済シンポジウム

ナホトカ青年の船   1982年、自ら「国際親善交流センター(JIC)」を設立し、理事長に就任。以降、JICをソ連、モンゴル、中国をはじめ各国との国際交流活動を担う有力な団体に成長させる。

 1983年「全国に捲き起こそう!中企連運動」を合言葉に「中企連結成10周年記念大会」(大阪城ホール)を開催、全国から1万人の参加を得て成功を収める。1980年の東京本部設立に続き、この記念大会に前後して札幌、鹿児島、会津若松、名古屋、仙台、広島、金沢、長崎と、北は北海道から南は九州まで全国の主要都市に中企連事務所を開設。 中企連10周年記念集会

社会党・出前演説会  1984年には、行動する「ニュー社会党」をめざして全国で「出前演説会」に取り組み、事務局長に就任。翌1985年には全国60ヶ所で演説会を開き、国会議員による「のぼり押し立て、全国へ」の院外活動スタイルは、大いに注目を浴びる。

 1986年、米国の黒人運動指導者であるジェシー・ジャクソン牧師(元民主党副大統領候補)を初めて日本に招へい。東京と大阪で開かれた世界人権宣言記念集会でのジャクソン牧師の特別講演など、「反差別国際連帯」の輪が確実に広がる。 ジェシ-・ジャクソン牧師と

谷畑孝副会長初当選  1987年参議院大阪地方区補欠選挙に秘書であった谷畑孝氏が出馬。1989年の参議院選挙大阪地方区で谷畑孝氏は90万票を集め、見事トップ当選を飾る。1994年村山連立政権の成立で通産政務次官に就任。その後1996年、衆議院選挙の大阪第14選挙区(八尾市他)に自由民主党公認で出馬し、当選。(2001年現在 2期目)

 1988年、リクルート事件での元秘書関与の疑いで、世間を騒がせたことに対する道義的、政治的責任を取り、議員辞職を決断。1年3ケ月後の1990年衆議院選挙では堂々の2位当選を果たし、6期目の新しい出発を飾る。社会党・大蔵部会長時代の手腕に期待され、衆議院大蔵委員会委員に復帰。 衆議院六選目当選

台湾訪問  1990年、4人の顧問国会議員とともに台湾・台北市を訪問。当時野党の民主進歩党本部や立法院(議会)、台湾外交部長(外務大臣)と会談し、高成長を続け活気溢れる台湾経済を視察する。現地のマスコミでは、中国との関係が深い日本最大の野党・社会党国会議員の大挙訪問のニュースとして、大きく報道される。

 1991年、中企連・中国経済特区視察団の団長として海南省海口、広東省珠海、深圳の3都市を訪問。「改革・開放経済」に取組む経済特区の現状を視察する。また同年の秋には、顧問国会議員を含めた大型視察団を率いて再び訪問し、深圳市に中企連事務所を開設。以降、上海市、淅江省、福建省など各地域の経済視察団の受け入れなど中国との交流が進められていくことになる。 中企連・中国事務所開設

南アフリカ再訪問  1991年日本社会党を代表して32年ぶりに南アフリカの地で開かれたANC(アフリカ民族会議)の歴史的な大会に出席し、タンボ国民議長と会談。また93年にも国会の「反アパルトヘイト議員連盟」の副会長として、土井たか子社会党元委員長(当時)とともに再度訪問。ANC主催の「国際連帯会議」に参加し、制憲議会選挙を控えた南アフリカの経済や教育の現状を視察する。

 1992年、日本とモンゴルの友好親善めざして、モンゴル相撲青年力士の日本相撲界入門の橋渡しをする。これは関西後援会長を務め、かねて懇意にしていた大島親方(元大関旭国)に働きかけ実現したもの。現在、旭鷲山や旭天鵬などモンゴル出身力士の活躍は相撲界に新風を巻き起こし、日本だけでなくモンゴルでも大きな関心を呼んでいる。 モンゴル青年力士の橋渡し

日ロ経済シンポジウム  1993年には、日本ロシア協会の副会長に就任し、新生ロシアからの経済視察団の受入れに協力する。また、1994年には日本とロシアの経済交流拡大をめざして、国際親善交流センター(JIC)による「日ロ経済シンポジウム」を大阪・東京で開催する。

 1993年55歳、7期目を目指した衆議院選挙で惜敗。議員引退を決断。 上田卓三議員引退